「正しい言葉の使い方」という概念なんて、なくなってしまえばいいのにと以前からすごく思っています。
…と、それだけ書くと語弊がありそうですが…(・_・;
日本語の使い方っていろいろ難しくて、敬語やら漢字やら、接尾語や接頭語やらいろんな決まりや由来があって、それらを従来の使い方通りにずっと使っていくのはなかなか至難の業です。
そして、少しそれらの“伝統”を知っている人たちから「その言葉の本当の使い方はこうだ」という指南がよくあるのもこの言葉の世界のお決まりです。
ただ、そこでいう「本当の使い方」っていうのが本当の「正しさ」なんでしょうか。
僕が思うに、現在 “生きている” その言葉の使われ方の方がよっぽど、正しいと思うのです。
例えば、よく「ぜんぜん」という言葉の使い方を正すシチュエーションを目にします。
「ぜんぜん」って、もともと下に否定的な句を続けて使う言葉。
でも最近は肯定的に使う人も多いように思います。
正式に言うと、
「ぜんぜん大丈夫ではないです。」は ○
「ぜんぜん大丈夫です!」は ×
ということになるのだけれど、でも、今はどちらでも意味は通じると思います。
大辞林で調べても肯定的に使うのは俗語として認められつつあるのかな?
例えばこういう言葉に対して、「これは否定的な言葉を続けないとおかしいよ。あなたの使い方は間違っている。この常識知らずが!」という反応をする方たちがいるのだけれど、その反応自体にとても違和感を感じています。
伝統的な使い方が美しくてある程度の規則にのっとっていたほうがいいというのもわかるのだけれど、でも、人から使われなくなったり理解してもらえなくなったりしたものはそれは既に死んでいるもの。
たとえ従来の使い方ではなくとも、“今” の時代に生きている使われ方こそ、その言葉の「正しさ」なんじゃないかと思うのです。
言葉だって進化させてあげてほしい。
言葉の使い方の根底にあるものって、おそらくいわゆる「マナー」なんだと思います。
マナーってなんでしょうか。
決まった形をこなすことがマナーでしょうか。
たぶん、そうじゃないはずです。
マナーって、人に不快な気持ちを与えなかったり、気持ちよくことを進めるためのものだと思います。
だから、“今” 生きている言葉を、伝統的な “正しい” 使われ方じゃないという一点で非難する人こそ、もしかしたらその周りの人たちを嫌な気分にさせるのかもしれません。
少し話を変えてちょっと違う視点から言うと、例えば「がんばります」という言葉があります。
とても前向きで僕は好きな言葉です。
ただ、この言葉はビジネスシーンではよく禁句扱いされることがあります。
「 “がんばります” じゃなくて “やります” と言え!」と。
もちろんその意味はわからなくもないのです。
ビジネスでは結果しか意味がなく、また「がんばります」という言葉が逃げ口上として使われることも多いからだと思います。
でも、「 “がんばります” じゃなくて “やります” と言え!」と言っている人の多くも、どこかからその概念を拾ってきただけで、ロボットのようにお決まり文句でそれを言っているだけにすぎないのも事実です。
あまりそのやりとりに意味がないのです。
だから、そのやりとりを耳にするたびに、「あぁ、“がんばります” って言葉が可愛そうだ。」と思うのです。
本来は素敵な言葉なのに。
もっとその言葉のもつ本当の力を解放させてあげたい。
人の力によって、その力を制限しているにすぎません。
もちろん「言葉」って人が作り上げ、人が使っているものです。
でも、いったん生まれてきたものはそれが「人」であれ「物」であれ「言葉」であれ、それは自立し一人歩きしていく自由があるはず。
だから、変に人の「常識」や「マナー」で言葉を制限してはいけないのではないかと思っているのです。
「正しさ」なんて見る角度によっては、ぜんぜん違うものになります。
今、「正しい」と盲目的に信じていることが本当に人の役に立っているとは限らないのです。
言葉を解放してあげると、きっといろんな新しいものが生まれてくるんじゃないかな。
それが今のこの日本を変えていく大きな発明に繋がるかもしれない。
……なんて、そんなことをふと思う雨の日なのでした。
おわり。
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