「死ぬ」というのは実際どういうものなのだろう。
ここ一週間ほど、病院からの『父がもう余命数日』だという連絡のもと、何度も新幹線に乗って通っていて、今もまた新幹線の中でこれを書いています。
そういえばこのブログを読み返してみると、4年ほど前に『余命3ヶ月と言われたら』というエントリーを書いていた。
4年ほど前に『余命3ヶ月』と宣告されていたらしいけど、それからもう4年も経ったんだね。
でも…今回はもう本当にお迎えが来たのかもしれない。
「死ぬ」というのはどういうことなのだろう。
上で「お迎え」と、よくある表現を使ってみたものの、実はなんだかしっくりこない。
誰かが迎えに来るのだろうか。
約20年ほど前に母が亡くなった時はひどく悲しんで、立ち直るのに3ヶ月くらいかかったものだけれど、でもそれからというもの自分の中にある「死ぬ」の価値観がガラッと変わった気がしている。
「死ぬ」というのは何も恐れるものでも悲しむべきものでもなくなってしまった。
もちろん姿が見えなくなる寂しさはあるけれど、別にすぐ側にいるようにも思えるし、何も変わらないような気もしている。
死んだ人が辛い場所に行くものでもない気がする。
すぐ側で伴走する世界にいる気がする。
『居なくなるものではない』『辛いことではない』と思うと、恐れや悲しさはなくなった。
「死」というものに対しては、恐らく人類史上ずっと色んな捉え方があるんだと思う。
古来の呪術や祈祷や、宗教に至っても「死」を舞台に何か大きなものがうごめいていて、とても大袈裟なものとして扱われている。
そしてなぜかいつも「死」は悲しむもの。辛いもの。
本当にそれが正しい捉え方なのかな…
わからない。
「死ぬ」というのはどういうものなのだろう。