さて、今は空港でこれを書いています。
10日ほど前に往路の新幹線の中で前回のエントリーを書いていた気がするのだけれど、今はその帰路についています。
とうとう父が亡くなりました。
亡くなってから一週間が経ちました。
人が亡くなると大変です。
お通夜、お葬式、そして諸々の手続き…
なかなか喪主は大変です。
色んな手続きがありすぎて、一週間ではとうてい終わりません。
まぁ、父が面倒なものをたくさん残していたから特殊なだけかもしれませんが…
あと2ヶ月くらいは色々と手続きに追われそうです。
それはそうと。
あれだけ「人が死ぬ」事は悲しいことではないと理解していたのに。
だから悲しかったわけではなかったはずなのに。
お通夜での喪主代表挨拶に臨んだものの、なぜか『涙』が溢れてうまく話すことができませんでした。
なぜ。
別に何か思い出が走馬灯のように蘇ったわけでもありません。
会えなくなる寂しさを感じたわけでもありません。
悲しいことでも、本人にとっても苦しいことでもないはずなのに。
そう理解していたはずなのに。
自分でもなんで涙が出ているのかよくわかりませんでした。
ただ、ちょっと「先に待ってる母の元にいったのか」と思うと、なぜか涙が溢れてきたように思います。
前回のエントリーで『お迎えに来る』のは誰かわからないと書いたけれど、もしかしたら、人が死ぬという事は一番待っている人が迎えに来るのかもしれません。
そう考えると…やっぱり「死ぬ」ことは悲しむべきことでも哀れむべきことでもないよね。
だから、涙が出てくることは不思議。