『正しさが人を救うとは限らない』という言葉の舞台裏。

雑記
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どこで誰が言っていた言葉なのか忘れたのだけれど、ずっと なるほどなぁ と心に引っかかっている言葉がある。

「真の友達とは、たとえ自分が間違ったことをしようとしていても、それをわかって応援してくる人のことだ」

なるほどなぁと今でも思っている。

たぶん普通ならきっと、

「真の友達なら、自分が間違ったことをしようとしていたら、体を制してでも止めてくれる」とか「人が言いにくいようなことでもきちんと注意してくれる」とか、そんなありきたりな言葉になってしまうんだろうけど。

…よく考えたら、本当に間違っていることをしようとしていたら、それは友達でなくたって誰でも指摘できるんだよね
そして今のネット全盛の世の中、指摘や批判はやられ放題だから、それはなおさら。

だからそもそもこの言葉の大事な部分はそこではなくて、「本当の正しさや間違いって誰の基準で判断しているのか」という部分なんだ。

その人がやろうとしていることが「正しい」のか「間違ってる」のかって誰が決めるの?という部分。

たぶん、ちょっと変わったことをしようという人がいるとすると、きっと周りのいろんな人たちはとりあえず懐疑的な目で見て、親しい人ほど「それは間違ってる。止めとけよ。」って言うんだ。

でも、その「間違ってる」って基準はあくまでその人の勝手な「正しさ」の基準から作られてるものだから…。
多くの人がなんとなく「正しい」と思っている偶像から作られた基準で言っているにすぎない発言だから。

だから、上の言葉の解釈は

「真の友達なら、一見あなたが間違ってることをしようとしていても、あなたを信じてそれを応援してくれるはずだ。だってそれは今までの誰もやったことも考えたこともない、今の世の中にはない新しい大発見のひとつなのかもしれないのだから。」

とか、そういうことになるんだと思う。

「正しさ」って難しいところで、何をもって正しさとするかというのを考えだすときりがないんだけれど…。

本当の正しさって何?
法律?常識?風習?習慣?道徳?倫理?
たぶんそんなところからきているところが多いのだと思うのだけれど。

確かに、そういうものは必要なのだけれど、それらは時代とともに変化していくものだ。
今までの歴史の中で何度も変化しているもの。

そもそも、今のその法律や風習で、本当に人々は幸せになっているんだろうか。

…いや、確かにより「不幸」にならないようにはできているのかもしれないね。

でも、何かの進展には大きくブレーキをかけているものかもしれない。

現にその規律や倫理で、今自分がいる組織や社会が本当に住みやすく発展しているかどうか考えてみるとよくわかる。
きっと今自分が属してる組織や国は前に進んでいない。どちらかというと後退している。

今信じてるその「正しさ」が人を救っているとは限らないということなのかもしれないよ。

…まぁね、それこそ「進化」や「発展」が『正しい』のかどうかはわからないけどね。
これを突き詰めると無限ループになるのだけれど。

ただ…なんだかこのままでは「夢を語れない世界」ができあがっちゃいそうだから、僕は「誰も人の夢を否定しない世界」を作りたいと思う。

…なんかふとそんなことを思う休日の夜なのでした。

おわり。

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